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STORY
HIRAOAKA COFFEE HIRAOAKA COFFEE

百年珈琲物語

HISTORY
創業者・小川忠次郎について

平岡珈琲店の創業者・小川忠次郎は、明治20年(1887)千葉縣君津郡木更津町(現・千葉県木更津市)で醤油醸造所を営む家の六人兄妹の次男として生まれました。当時、「上小」上総国小川啓蔵のブランドは、天ぷらの名店ハゲ天など東京の飲食店にも商品を納入して、手広く商いを広げておりました。

長男が近衛師団に入隊して軍人の道を選んだことから、忠次郎は次男ながら跡継ぎとして家業に就くことになります。家族から「忠ちゃん」と呼ばれた忠次郎の主な仕事のひとつは、東京の得意先回りでした。

明治38年(1905年)は、日露戦争の終戦の年です。18歳の忠次郎は、皇居前の広場に展示されていた日露戦争の鹵獲物資(戦争で敵国から奪った品々)を見て、巨大な大砲や機関銃、見上げるように大きな躯体の軍馬に驚嘆し、また銀座を闊歩する洋装の人々にカルチャーショックを受けたようです。

その頃、故郷の木更津では、洋服を着ているのは軍人と役人だけという時代です。東京と木更津を往復する日々を過ごすうち、忠次郎は次第に洋風の生活に憧れを強めていきました。大枚をはたいて洋装を誂え、銀座の街で当時流行の最先端として、もてはやされたカフェーパウリスタに通うようになりました。そこで味わったコーヒーとドーナツの味に惹かれ、忠次郎はパウリスタの店主にレシピについて教えを請うようになります。

「西洋の味と文化を伝える仕事に就きたい」

その憧れと想いを強くする忠次郎でした。

平岡珈琲店の歴史

[明治40年頃の家族写真]
木更津の醤油蔵の前で撮影された。中央左の洋装の人物が忠次郎。家族写真をよく見ると、ただひとり洋装の忠次郎はすぐ下の弟である松太郎に肩を寄せています。また、家を継がず軍人の道を選んだ長男の善次郎が、そっと肩に手を掛けているのは四男の三十郎。この人は後に陸軍に入り、激戦を生き延びてアッツ島で終戦を迎えました。家長の啓蔵は、末っ子の俊介に手を添えています。兄弟が6人もいると、自然と派閥のようなものが生まれるのかもしれません。

平岡珈琲店の歴史
平岡珈琲店の歴史
平岡珈琲店の歴史
平岡珈琲店の歴史

家族写真と同じ明治40年頃の戸籍謄本の写し。

ANOTHER JOB
忠次郎のもうひとつの仕事

平岡珈琲店の歴史

[醤油の桶買いから輸入飲料を扱う商売へ]
忠次郎のもうひとつの仕事は、醤油の桶買いです。上小醤油はなかなかの売れ行きで、自社の醸造所だけでは製造が追いつきませんでした。そこで、千葉縣に並ぶ醤油の産地であった兵庫縣尼ヶ崎(現・兵庫県尼崎市)の醤油メーカーから醤油を樽で買い付け、木更津に回漕して、自社の製品にブレンドして出荷していたのです。生産の一部を下請けに回していたわけですね。これを「桶買い」と言います。なにしろ新幹線も航空便もない時代ですから、数日かけての出張になります。その際に定宿にしていたのが尼ヶ崎・城内にあった料理旅館「平岡」でした。

長身で整った顔立ちの忠次郎は、女性にもてたようです。親の決めた婚約者の他にも恋人がいたそうですが、尼ヶ崎でも評判の美女だった平岡の娘と恋仲になり、結婚を考えるようになりました。木更津の両親は大反対でしたが忠次郎は意にも介せず、家の跡継ぎを弟の松太郎に譲り、結婚して妻の実家のある尼ヶ崎に移ってきました。家業を捨てて、入り婿同然に押しかけて来た忠次郎を、平岡家の人々は温かく迎えました。平岡のバックアップを受けて、忠次郎はかねて念願だった洋食に関わる店を持つことになったのです。

忠次郎が始めたのは、ワイン、ブランデー、ウイスキーなどの輸入飲料を扱う商売でした。どのような伝手があったのか分かりませんが「グレンハンター Glen Hunter」というスコッチウイスキーの代理店の権利も買ったそうですから、商売としての採算よりも時代の最先端を目指していたのではないでしょうか。もとより、金の話をするな、俺たちは商売人じゃないんだという家風です。身のほど知らずな見えを切って見せたのかもしれません。

BEGINNING
平岡珈琲店の誕生

商売は決して順調とは言えないものの、大正8年(1919)に終結した第一次世界大戦で為替レートが安くなったヨーロッパから仕入れる商品を、それなりの高い値段で売るのですから損は出ません。妻との間に男3人、女3人の子どもをもうけた忠次郎は、ここで自分が1番好きな珈琲に仕事を絞るという決断をしました。平岡珈琲店の誕生です。大正10年(1921年)のことでした。

折しも寿屋(後のサントリー)が創業し、東京の蜂印ハニーワインに対抗して赤玉ハニーワインを売り出すのが1921年のことです。明治維新で大急ぎで西洋化を進めた日本が、あらためて庶民レベルで西洋文化を浸透させていった時代だったのかもしれません。それが大正モダンと呼ばれたのでしょう。大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災で壊滅した東京に替って首都機能を発揮し始めた大阪は、人口も東京をしのぎ日本一の都会となり「大大阪の時代」と呼ばれる活況を呈していました。しかし、平岡珈琲店の経営は決して順調なものではありませんでした。

DEPARTURE
カフェとしての出発

忠次郎が目指したのは、カフェの経営ではなく、コーヒー豆の販売店でした。当時、軍隊から広まったカレーライスやハンバーグなどの洋食は、大正時代になって庶民向けの洋食店が流行したこともあって、ようやく浸透してきましたが、まだまだ家庭でコーヒーを飲むという習慣にはいたりません。店頭にコーヒー豆を並べても、買う人はいませんでした。仕方なく、客の目の前でコーヒーを淹れてみせ、味見をさせた上で売ろうと試みましたが、「苦いなぁ、これ。焦げ臭い匂いがするわ」と嫌われるばかり。やがて「豆はいらんけど、コーヒーを飲ませてくれ」という人が現れるようになり、やむなくコーヒーを提供するカフェとして再出発することになりました。

とは言え、銭湯の入湯料が6銭という時代に、平岡珈琲店のコーヒーは1杯15銭。普通郵便のハガキが1銭5厘ですから、だいたい今の貨幣価値で、1杯1,000円くらいの感じでしょうか。とても庶民の手の届く値段ではありません。お客様は、「旦那はん」と呼ばれる大店の主人や、勤め人でも高給取りの銀行員や商社マンに限られました。それでも、「高いけれど、美味いコーヒーを飲ませる店がある」と、少しずつ評判が広まり、三井物産の社員が、お昼休みにタクシーを相乗りしてやって来ることもありました。当時は円タクといって、距離に関係なくタクシー代は1円でしたから、15銭のコーヒーを飲むのに往復で2円かかるわけです。北船場界隈で働く丁稚さんたちの間では、「馬場万で誂えた鞄を持って、平岡でコーヒーを飲むような身分に出世したい」というのが合言葉になっていたそうです。馬場万というのは、現在は鰻谷の通りに店を構える馬場万鞄店で、当時は平野町にありました。今でも注文から2年待たないと手に入らないという評判の高いお店です。

エスペラント語

この頃、忠次郎はエスペラント語に出会いました。エスペラント語というのは、ユダヤ系ポーランド人の医師ザメンホフが開発した人造言語です。第1次世界大戦後、戦争への反省から、世界中の人々がコミュニケーションを取れる言語として、注目を集めました。特に日本では、左翼系の人々が学んだといわれます。忠次郎は仕事の合間を縫って、エスペラント語の勉強会に通い始めます。そこで知り合ったのがドイツ人のパン職人ハインリッヒさんです。彼の焼くドイツパンに忠次郎は魅了されました。ハインリッヒさんにお願いして、平岡珈琲店にパンを卸してもらうことになりました。その人柄にも惹かれた忠次郎は、ハインリッヒさんに頼み込んで、長男の啓一をパン職人の見習いとして預かってもらうことにしました。昭和8年(1933)に、大阪貿易学校の英語科を首席で卒業した啓一は、神戸にあるハインリッヒさんの経営するパン屋に入ります。「大切な技術を教えてもらうのだから、給料は要らない」という忠次郎に、ハインリッヒさんは「人をタダで働かせるのは大きな罪です」と決して応じませんでした。啓一は、ロシア革命で逃れてきたベラルーシ人の貴族やユダヤ人の職人など、時代に翻弄された人たちと懸命に働きましたが、残念ながら半年後の昭和8年(1933)に結核で亡くなります。啓一をパン職人として独立させ、店を持たせるという忠次郎の夢は潰えましたが、ハインリッヒさんのパンは、昭和20年(1945)まで平岡珈琲店のメニューを飾りました。神戸大空襲と阪神大震災という未曽有の災害で二度も被災したハインリッヒさんの店は、彼の苗字であるフロインドリーブの名前で今も多くの人に親しまれています。フロインドリーブは、ドイツ語で「友愛」を意味します。ハインリッヒさんに相応しい苗字ですね。

演劇界の人々

大正の終わりから昭和の初めにかけて、つかの間の平和な時代に、演劇人たちも平岡珈琲店を訪ねてくるようになりました。演出家の土方与志さん、新派の俳優で映画監督としても知られた井上正夫さん、また彼らを慕って俳優の長谷川一夫さん、女優の水谷八重子さん、岡田嘉子さん、鈴木光枝さん、井上さんに師事し、その記憶を書き残した蜂野豊夫さんなども大阪に立ち寄ったときは、平岡珈琲店を訪ねてくださいました。しだいに右傾化してゆく日本に見切りをつけたのか、土方与志さんと岡田嘉子さんが、それぞれソビエト連邦(現在のロシア)に亡命したのは、時代を象徴するできごとだったかもしれません。のちに岡田嘉子さんが亡くなる前に一時帰国されたときに、「懐かしいあのお店に」と平岡珈琲店に色紙を届けて下さいました。ご本人に代わって届けて下さったのは、岡田嘉子さんとともに亡命しながらスパイ容疑で銃殺刑となった俳優・竹内良一さんの妹で女優でもあった竹内京子さんでした。ご自身もフランス人とのハーフであった京子さんには、兄の愛人であった岡田嘉子さんに対して複雑な感情があったのではないでしょうか。これを読んで下さる皆さんには、まったくなじみのない名前ばかりでしょう。昭和の演劇界の歴史の片隅に、平岡珈琲店があったことを、記憶に残していただければありがたいです。

余談ですが、映画監督の井上正夫さんは、忠次郎の三男の洋(よう)をたいへん気に入っておられたようで「この子が二十歳になったら、東京の僕のもとに預けなさい。彼には素質がある。いい役者になると思うよ」とおっしゃって、忠次郎も洋もそのつもりでいたようです。ですが、いよいよ来年には東京に向かうはずだった1944年の年の暮れに結核の病状が急速に悪化して、押し詰まった12月29日に帰らぬ人となりました。井上正夫さんからは、長文の哀悼の手紙が送られてきました。忠次郎は手紙を読んで東京の方角に深く頭を下げると、ひとりだけ残った次男の浩に「おめえは出来の良くねえ息子だが、こうして生きているだけでも親孝行かも知れねえな」と漏らしたそうです。

戦中、戦後の物資不足

戦争中はコーヒー豆がなくてたいへんだったでしょう、とよく訊かれます。潤沢にというわけではありませんが、戦時中もコーヒー豆は手に入りました。万一を考えて少しずつ備蓄していたので、平岡珈琲店には終戦となる1945年8月の時点で、一年分くらいの在庫がありました。
ほんとうに物資がなくなったのは、戦後のことです。混乱の中、都市部では主食となる米も手に入らず、食料配給制度が取られました。それでも満足に行き渡ることはなく、飲食店の営業など、とてもできない状態が続きました。 若い世代の方々には想像もつかないことでしょうが、日本は戦争に勝った連合国の統治下に入り、大阪では淀屋橋にある日本生命の本社ビルがGHQ(General Headquarters 連合国軍最高司令部)に接収されました。名建築として有名な綿業会館は将校たちの社交場であるオフィサーズクラブに、心斎橋そごう百貨店は連合国軍兵士たちに生活必需品を販売する酒保PX(Post Exchange)となりました。
船場地区の占領にあたったのは、ニューギニアで直接日本軍と交戦したオーストラリア軍の兵士だったので、日本人に対する反感が厳しく、街中で発砲音が響くことも珍しくなかったそうです。日が暮れると、誰も外出できなかったといいます。
それでも、当時は中之島にあった大阪帝国大学医学部の教授方や三井物産の社員の皆様方のお力添えもあって、社会が落ち着くにつれて、ようやく平岡珈琲店にも日常が戻ってきました。

忠次郎の死

まだ日本が占領下にあった1947年10月、忠次郎は豊中にあった自宅で倒れました。クモ膜下出血によるものでした。顧客であった阪大医学部の先生方のご配慮で、阪大病院で治療を受けることになりましたが、その甲斐なく10月19日に息を引き取りました。
遺体は故人の生前の遺志により阪大医学部に献体され、解剖に付されました。なにかと面倒を見て下さった医学部の先生方のご恩に報いたいとの思いがあったのでしょう。執刀して下さった先生によると、クモ膜下には過去にも出血したあとがあったそうです。「耐えられないほど激しい痛みがあったはずなんだが。あまりに我慢強いのもあれだね。もっと早くに私たちに相談してくれれば、助けてあげられたかもしれない。毎日のように顔を合わしていたのに、残念だね」とのお言葉でした。
葬儀では、親しくしていた京都・西岩倉の金蔵寺のご院主が読経して下さいました。墓は、金蔵寺のある小塩山の中腹に設けられました。京の都を一望に見下ろすこの地は、関東の片田舎で生まれ育った忠次郎がお気に入りの場所でした。

「白い巨塔」の財前五郎

戦中、戦後と大阪大学医学部の先生方が、良く来られました。中でも70年代に、学会があるたびにコーヒーの出前を頼まれるほど通われたのが、神前五郎先生です。先生はその一字違いのお名前から、山崎豊子の代表作の一つである「白い巨塔」の主人公・財前五郎のモデルではないかと噂された方ですが、実際は小説の財前とは違って、学究肌の謹厳な医学者でした。ただ、コーヒーを召しあがっておられる間はくつろいでいらっしゃったのか、常連客と他愛のない世間話をかわし、店主にも気さくに話しかける一面を見せておられました。二代目店主の浩が胆石に苦しんだときには、「僕が切ってあげてもいいんだけどねえ、かえって気詰まりかもしれないからね」と教え子が務める厚生年金病院を紹介して下さるなど、ずいぶんとお世話になりました。

これからの百年に

平岡珈琲店が、これからの世代のお客様と次の百年の物語を綴っていけるよう、切に願っております。ここまで読み進めて下さったことに、深く感謝いたします。

ごあいさつ 喫茶メニュー 珈琲豆の挽売り